私は美雨とひとときをすごすことで、癒そうとしていたのかもしれない。
癒そうとしていたものがなにかは、今でもわからない。
奴隷として向き合うとき、大人の女は、退行し、幼女のようになる。
羞恥、被虐、陵辱を経て、素直になり、健気になり、自分が愛しくなる。
その変化の過程が女として、いい。
浄化され、癒され、繰り返すことで次のステップに自然に向かう。
もっと自分を大切にしようとして、自分のために何が必要かと、自然に選択するようになる。
M性とはあまえたいという願望だ。
それはさみしいからだ。
そして、誰かに自分を見ていて欲しいからだ。
奴隷として美雨は私のことも心配してくれる。
だけど、私はいい女をひとときでも私の奴隷にして、ペットにして、可愛がり、調教、管理して、悩みや成長や、心のきれいさや、女の香りや体を支配できたことがしあわせだろう。
人は人が笑うとしあわせを感じるし、人がよくなること、まして関係した相手がよくなることに悦びを感じるのが性だ。
ただいじめるとか、大きな声を出すとか、汚いとか、痛いだけとか、SMはそんなものじゃない。
奴隷になるということは人生を崩壊することじゃないし、墜ちることじゃない。
Mならば(Mじゃないなら奴隷のあまさやせつなさはわからないから、SMしないほうがいい)、自分を認めて、解放して、体を拘束されること、支配されることで心の自由を得る。
そして、今までどうしてもできなかったことができるようになる。
自分をいじめることをやめて、大切に思うようになる。
性欲だけどか、今の自分が辛いからSMに逃げるとか、ほんとうは違う。
だけど、人は間違い、失敗しながら成長していく生き物だから、最初はそれでいい。
私はそれを修正していく。
ご主人様と奴隷の距離
久しぶりに会ったとする。
自慰を禁止しているから、体は火照っている。
ゆっくり食事をしながら、下着を脱がせ、ときには股縄で過ごさせる。
仕事や生活や、夢や、荷や苦をすべて聞く。
報告させると言っていい。
心も支配していたい。
奴隷になることで、安堵や平安を感じるのがM性だから、主として優しく接したり、厳しくする。
私の方を向いて、服を脱がせる。
心も裸になる。
信頼関係ができてから、主と奴隷の関係がある。
あたりまえだ。
変なのとか勘違いしているのもいるから、やたらとできるものじゃない。
それはおたがいさまだ。
私は、時期がきたら、きちんと仕事のことも自分のこともすべて晒す。
あたりまえだ。
真剣に自分を捧げる相手に対して、女としてのプライとを傷つけないように、人としてちゃんと向き合うためにそうする。
奴隷なのだから、みじめなこと、恥ずかしいことを少しずつさせるけど、ひとつずつだ。
あたりまえだ。
信頼できない相手に体を捧げることなどできるわけがないし、リスペクトしなければ奴隷として仕えられない。
ひどいことをさせられるのがM性ではない。
被虐のあまさ、飴と鞭、予感とか、余韻とか、あまずっぱさとか、素直さとか、せつなさがマゾヒズムだ。
そういうことをちゃんと教える。
首輪。
縄。
鞭。
命令。
管理。
奴隷。
ペット。
SMはきれいで、あまく、せつないものだ。
そういうこと教える。
汚い言葉とか、ドロドロの性欲だけどか、痛いだけとかスカトロとか、それは違う。
ふだんは頑張って生きている。
だから奴隷の時間が輝く。
ときに、股縄ですごさせる。
そのとき穏やかだ。
鞭で尻を叩く。
なにがしか、素直じゃなかったとかそういうときだ。
ごめんなさいと啼く。
どうして叩かれているのかと聞き、お仕置きだと答えさせる。
そのとき平安だ。
生まれたままの姿になって、縄を受けるために両手を背中で組む。
うなじが自然に垂れて、はかなく思う。
私を信じてくれているから、縛られるとき、安らいでいる。
首輪は癒やしだ。
そのままの自分でいることができる。
SMとはそういうものだ。
恋人のようにあまい時間を与え、主として毅然と向き合うとき、瞳が変化する瞬間がいい。
凜として、瞳が濡れている。
厳しく縛められながらMの自分と向き合う時間は、私といるときだけで、生涯ないことなのかもしれない。
首輪でつながれ、ペットとして扱われる自分を経験しているのだ。
そこからもっと羽ばたこうとしているのだ。
ちゃんと考えているのだ。
逡巡して、悩み抜いて、そして美雨は調教を受けとめる。