どこまでも孤独だった。
押しつぶされそうになる。
それでも、生きていかなきゃいけない。
だから、ただ生きていくのだ。
そういうときって、誰でもある。
ひとりぼっちで、つらつらといろんなことを思った。
人生いろいろ
今、満たされていない。
自分はMで、今、自分の人生はほんとうの自分と違う。
それはわかる。
今の自分を変えたい。
超えたい。
自分らしく生きたい。
それもわかる。
だから誰かの奴隷になろうとする。
だけど、少しだけ待って、きちんと自分の心と向き合い考えてみたらいいのではないかと、思う。
恋もしたし、ひとときのSMのときもあった。
真剣な、心に突き刺さった出会いもあった。
自分の性欲を満たすためだけに利用されたときもある。
深く傷ついた。
だけど、ちゃんと主従だった女性は、切実で、真剣で、こっちも真剣だった。
1回だけの訳ありのときもあった。
さみしい。
辛い。
満たされない。
そのままで生きるより、勇気をふりしぼり、それこそ死刑台に乗るようなつもりで、清水寺から飛び降りるほどの覚悟で、調教されにきた人もいた。
生涯忘れなれない出会いもあった。
主従関係という恋もした。
学生さんで、両親が離婚し、生活費のためにマゾ男性の女王様になる、だけど、自分はMだから、生涯の記念として一度だけ調教してほしい。
あなたの奴隷になるのは、その人に対して失礼だからできない、それでもお願いしたい。。。
自分はきっとMで、主人とでは満たされない。
このまま悶々と生きるより、自分がMか確かめたい。
主人は優しくて、自分も主人を愛している。
裏切ることはできないけれど、一度だけ調教してほしい。
それではっきりさせたい。
なんどもなんども逡巡して、ようやくメールしました。
車椅子の女性を調教したこともあった。
生涯の記念とするからと、泣きながら縛られていた。
むじゃきで純粋で、奴隷になったけど、悩みもがいていた。
私は心が洗われた気がした。
北国は雪が結晶のまま落ちてくると教えてくれた。
お別れするとき、抱きついて泣きだした。
今時珍しいほどの気立てがよかった。
以前の相手とは、相手の将来を考えてお別れしたことに、それじゃあ、ご主人様がさみしいじゃないですか、私がご主人様といっしょにいたいと言ってくれた。
私の孤独ととことん向き合おうとしてくれた。
こんな私なのに、誕生日にはメールをしてくれた。
お別れするとき、約束を守ったことを感謝してくれた。
とても辛い思いをさせたけど、プラスの思いでとしてくれた。
あなたが独身だったら、離すことはなかった。
羅列してしまったけれど、ひとりひとりだ。
そのとき、真剣であった。
出会いサイトで、いろんな相手とSMするのもいいだろう。
プレイを楽しむのもいいだろう。
複数の相手と関係するのもいいだろう。
私はそういうのすきじゃない。
だけど、私はそういう生き方を否定はしない。
そうしなければ生きていけないか、そうしなければバランスがとれないときもある。
人生なんて、理屈じゃない。
きれいごとで片づけられるほど人生は単純じゃない。
しあわせの青い鳥
昔はほいほい調教したけれど(笑)、もういい年だ。
私には美雨がいる。
多くのM女を見てきて、悶々としていたり、苦しんで悩んでいる人に伝えたいことがある。
えらそうで申し訳ないけれど。。。
一度、じっくりと、自分に向き合う時間を、自分に与えてあげたらいいと思う。
生きることがまずあって、SMの時間がある。
ほんとうの真性ならば、檻で暮らすとか、ぜんぶ自分の人生を捨ててマゾとして生きるという生き方もあるかもしれない。
だけど、ほとんどはそうじゃない。
バランスのなかで、人生の一部として奴隷の時間を持つことが現実だ。
小説や漫画の世界と現実は違う。
虐められるのはいいけれど、自分を虐めるのはもうやめにした方がいい。
今が辛いから、さみしいからだけでSMしようとしているのではないのかと自分で一生懸命、自分と向き合ってみたらいい。
ほんとうのしあわせは自分の中にある。
しあわせの青い鳥は自分の中にしかない。
しあわせって、心の状態でしかない。
歯が痛いとき、ディズニーランドにいったって楽しくない。
どんなに金があって、高価なもの食ったって、こころが平安じゃなければそんなのくだらない。
社会的なしあわせとか、家族がいるとか、誰かがいるとかは、ほんとうは2番目か3番目のことだろう。
主従も同じだ。
Mとして、飼い主に飼われる自分、縛られ、調教され、しつけられる自分がいちばんじゃない。
それは、自分の命に対して必死に、一生懸命に生きていて、その上で奴隷の自分が充実するのだ。
今、そうじゃなかったとしても、そうなるために、奴隷になる。
人生のバランスがとれて、暮らしが整い、充実して輝くために奴隷になるのであって、墜ちるのではない。
どんないい女だったとしても、自分の人生がどうでもいいという女性にほんとうのSは魅力を感じない。
少なくとも私は。。。
ほんとうのSとは紳士である。
思いやりとか優しさがある。
人として温かい。
その上で、冷淡さや厳しさがある。
やたら大声をだしたり、怒ったり、ただ痛めつけたり、そんなの違うと私は思う。
(そうされたい、そうしたいというSMのあるから、これは個人的な意見です)
今いる場所から始める
いいときばっかり起こる人生なんてあるはずない。
山と谷が繰り返しながら、失敗しながら、もがきながら、悩みながら、誰でも生きていくのだ。
今が理想とする人生じゃなくたっていい。
それは、そうなるために、自分の命が与えてくれた時間だ。
命が、もっと輝くための貴重だ時間だ。
孤独なら、とことん孤独と向き合えばいい。
街で華やかにはしゃいでいるだけがしあわせじゃない。
家族の団らんを憧れ、自分はひとりぼっちだったとしたら、そことちゃんと向き合うことを宇宙が望んでいるのだ。
宇宙は愛でできている。
これはきれい事じゃない。
古今東西の賢者や聖者が断言している。
自分を進化させ、すてきになるために、人は生まれ変わるのだ。
仕事も家族も、SMもそのひとつだ。
さみしさを知った人だけが、団らんにしあわせを感じることができる。
今いる場所こそ、自分の最適な場所だ。
そこから一歩ずつ、歩いて行けばいい。
失敗したっていい。
つまづいたっておきあがればいい。
それでも一歩踏みだすとき
その上で、奴隷になるならそうすればいい。
一歩踏みだせばいい。
人生は不条理に満ちている。
マゾヒズムに苦しんでいるのならば、癒やし、解放すればいい。
マゾヒズムとは、性欲だけとか、さみしいとか、ストレス解消とか、出会いサイトで一回縛られて自分はMだと気づいたとか、そんな単純なものではない。
もっと切実で、真剣なものだと、私は思う。
奴隷になるというのは、解放だ。
心の奥で、膝を抱えて泣いている自分がいる。
M女は調教されることで、奴隷になることで退行するから、その自分と向き合う。
奴隷に墜ちる自分は、せつないけれど、傷ついたままの自分と向き合い、時間をかけて癒やし、自分らしく歩いていくための時間だ。
いい大人が、首輪をされるとき、委ねる安らぎがある。
縛られ、鞭で仕置きされるとせつない。
そのあと、いい子だととことん優しくされる。
それからまた厳しくしつけられる。
あまく、せつない。
そういう、日常では経験できない時間がSMだ。
しつけられ、焦らされ、放置されながら、自分とむきあっているのだろう。
それは私も同じだろう。
癒やされ、体は官能に燃え、疲れきっても、心は穏やかで澄んでいる。
その瞬間を私も共有しているから、私も癒やされている。
大人の、静かな、時間を主従は共有する。
きたないとか、痛いだけとか、そんなの違う。
抱えていた傷を癒やし、悶々と過ごした時間を超えるとき、命は、命自らの使命としてすてきになるために動き始める。
強さとかやさしさとか、愛、思いやり、温かさ、しなやかさとか、ほんとうは、もう持っている。
忘れているだけだ。
他者にたいして愛がないのではない。
自分を愛せていないだけだ。
それはまだ未熟だからだけで、自分と向き合うことからはじめたらい。
だめで、どうしようもない自分を、それでも認め、愛してから、他者を愛し、認めてから、他者を愛し許すことができる。
それでも、Mだとしたら、自分を解放するためにSMの時間もあっていいだろうし、そうでもないなら普通に生きていけばいい。
奴隷になる、SMの世界にくるのなら、いっかい、自分ときちんと向き合ってみたらいい。
とりとめのない文章になっちゃったけど、えらそうに書いちゃったけど、迷ったり悩んだりしながら自分も暮らしている。。。
アマゾン キンドル 式の時の写真集