強くなれないとき、いつもM女にあまえていた。
それは主従として違うという人もいるだろう。
恋人のような関係と、主従は別だという人もいる。
それはそれで、その人だからそれでいい。
SMというのは、幅が広いし、奥が深いし、いろんな人がいる。
それでいい。
だけど。。。
心はいつも魅力に向かい 命は常に成長しようとする
人はそれぞれ幸せに向かおうともがいている途中の存在だから。
忙しければ、時間が欲しい。
お金がなければ、お金が欲しい。
腹減ったら、飯を食いたい。
さみしいなら、誰かがとなりにいてほしい。
幸せって、今ないものを求める心の状態なのかもしれない、なんて感じるときもある。
インドの聖者は言う。
あなたは、あなたの足りないところを学ぶために生まれてきた。
宇宙はすべてをすでに知っている。
あなたは今あなたが学ぶべき、最高の場所にいつもいるのだ。
それにあなたは気づいていないだけだ。
今いる場所から始めなさい。
心は魅力に向かおうとする。
あなたの心の中にだけそれはある。
あなたはそとのしあわせを幸せと勘違いしているだけだ。
幸せの青い鳥は、あなたの中にすでにある。
あなたはそれに気づいていないだけだ。
宇宙進化の法則は、あなたはあなたのままで、もがきながらいきていくことで、進化していることを知っている。
知らないのはあなただけだ。
大丈夫、そのまま進みなさい。
スワミ・シバナンダの言葉
宇宙ってきっとそういう法則があるんだろう。
大きなものにほんとは守られているんだろう。
そう思うけど、孤独だ。
そんなとき、いつも隣にいてくれるM女が私を癒してくれた。
すべてを私にさしだした。
心も体も私に捧げた。
SMは性欲とか体の関係だけのものでは、ない。
そんなものじゃない。
そういう人もいるし、そういう人が実際は多いだろうけれど。。。
たとえば。。。
目の前で、静かに服を脱いでいく。
命令され、素肌を飼い主に捧げる。
もちろん、恥ずかしい。
ひとつずつ脱ぎながら、M女は自分に戻ろうとしているのだ。
見られる、という思いは少しずつ、見てほしい、見てくれている、に変化する。
羞恥はあまい責めでもある。
生まれたままの姿になる。
首輪をつけられ、躾けられた通り、四つん這いに這う。
繋がれているという感覚は、守られているという安堵に変わる。
自分をすべて理解してくれて、かわいがってくれて、認めてくれて、見ていてくれて、受け止めてくれて、女として向き合ってくれて、奴隷としていじめてくれて、そしてすべてを許してくれて。
こころの奥に閉じ込めていた幼い頃の自分と、そのとき向き合うことになる。
長い間、ひとりぼっちで泣いていたその子は、だけど、瞳の奥に力を湛えている。
絶望などしていないし、愛を信じているし、一生懸命生きている人の目をしている。
そうこうことを思い、感じ、マゾヒズムのあまさ、せつなさ、被虐の悦びを与えられながらも、それでも、もうひとりの自分もいる。。。
自分がMであるか、そうじゃないか
縛られるのは、縄にハグされることだ。
あまい。
首輪でつながれるのは、自分を委ねることだ。
せつない。
飼われるのは、あまえたいからだ。
それはさみしいからだ。
性の部分、ふだん隠していることを飼い主にだけさらけだす。
女としての自分を知ってほしいからだ。
体を捧げるのは、自分はここにいるって叫びたいからだ。
管理されることは、守られていたいからだ。
それは、自分ではわからない不安とか、今の自分が少しだけ好きになれていないからだ。
飼われて、管理されて、愛されることはあまずっぱい。
そういう感じは、調教されれば当然ある。
SMは、ほんとうに、あまく、せつないから。
自分の人生に向き合おうとして、悩んだり、もがいて、苦しんで。
荷や苦やさみしさを、それでも乗り越えようとして、一生懸命生きていて、それでもMの性として、Mとして生きるか、Mの部分を満たして充実させるか、あるいはそこを癒して卒業するか。。。
辛いとか、あまえたいとか、委ねたいとか、首輪をされたいとか、縛られたい、管理されたい、などなどのM女の思いは、ぜんぜん恥ずかしいことじゃない。
変態じゃない。
それは感性の豊かさだ!
その思いの奥にあるのは、幸せになりたいという思いだけだから。
心は魅力に向かう。。。
それが人によっては、おいしいものだったり、服だったり、酒だったり、人の喜びだったり、社会への貢献だったりする。
人って、みんな発展途中の存在だから、少しだけみんなずれているし(笑)、それは当たり前だ。
完全じゃないのだから、失敗しながら成長していこうと命はしている。
宇宙は、もともとそのためにある。
様々な命を育み、魂を成長させるためにだけ、そっとある。
もがいて、失敗して、いっぱい悩んで、頑張って、まただめで、って、何度も何度も繰り返しながら私たちは成長していく。
命はそのために生まれてきた。
だから、今いる場所が完璧な場所で、今いるところから始めればいい。
愛、温かさ、平安、癒やし、強さ。。。
それは、ほんとはすべての命は完璧な形で持っているのだ。
ちょっと忘れてしまっているだけだ。
今を嘆いたり、自分をさげすんだりするのは、命や宇宙に対する冒涜だと私は思う。
そういう、本質を理解した上で、どう生きるか。
自分のM性と向き合うことはいいけれど、その前に生かされていること、愛を多くのものからすでにいただいていること、だから愛で生きること。
そういうことをまず思い、その上でマゾであるとか、ならばどう生きるかと、思いっきり悩み、苦しんだらいい。
SMはすてきなものだ。
マゾとして生きてもいいだろう。
主従は、かけがえのないものだ。
それでも、人として、女としての自分もちゃんと見てあげないといけないと思う。
命として、魂としての自分を忘れてはいけないと思う。
その上で、SMを人生にとりいれていいと思うし、マゾヒズムの被虐に身を焦がしてもいい。
誰かのマゾ奴隷になってもいいし、ならなくてもいい。
真性のMというのは、ほんとは少ない。
M性とは、開発されるものだ。
SMは魅力的だから、憧れるし、縛られてみたいとか、首輪で繋がれて鞭で叩かれたいと思う。
それはそれでいいけれど、自分のM性に悩み苦しむことは、もうやめたほうがいい。
間違ってるとか、自分は変態だとか、そういう生き方しかできないとか、そう考えるのは、もうやめるべきだ。
命と、自分の人生と向き合い、その上で、するならすればいいし、しなくてもいい。
虐められることを選択してもいい。
だけど、
自分を虐めるのだけは、もうよそう。
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