はあって、息を吐くとよけいこころが弱くなった。
最近、酒を飲みすぎている。
忙しいからとさみしいのと疲れているのと、でもそれだけじゃないのかもしれない。
本当にしたいこと、なりたい自分と今が違うからなのか。
目次
お互い深く理解してSMの多頭飼いは成り立つ
このサイト、細々と続けていたら多くの人が見ているらしい。
多頭飼いについて、書く。
これはあくまで私個人の意見だ。
多頭飼いについてのM女からの相談が多いから書いた。
SMは複数の奴隷を所有するというのも、まあ、ある。
それはただし、両者の理解がある。
理解とは多頭飼いしている、されているとちゃんとお互い知って、合意の上のことだ。
隠れてそんなことしているのは多頭飼いじゃない。
それ以前に相手に愛情や尊敬やリスペクトの気持ちがないのは私にはわからないので答えようがないし、はっきり書くと、そういうSMもそういう人たちも好きじゃない。
それも、主は、たとえば50代以上とかで、それなりの人間性と、M女が求めるものを与えることができる場合だ。
大人の男で、お互いSとMとして納得したうえで、所有して管理する。
どうしようもないから、そういう関係になったというのもある。
年が違うとか、相手が結婚しているとか。
大人の男としての深さとか愛とかそういうのがある場合に多頭飼いはあり得ると思う。
その場合は、自然にそうなったのであろう。
切実さとか、お互いいろいろ乗り越えて納得してそうする場合だけ。
それでもいいと相手に思わせるだけのものを持っている場合のみ、多頭飼いは成立する。
SMは拷問じゃないし、ひどいことされて悦ぶだけがMではない。
懐かしさとか、せつなさとか、温かさとか、落ち着くとか、そういうの与えられたらいいと思う。
主従の関係は、プレイとか調教とともに、人としてどう向き合うか、どこまで相手に寄りそえるかだと思う。
そのつもりがなくて、悩みながら、が多頭飼い
Sというのは、すてきなMなら所有したいと思うものだ。
まず、ひとりの相手と真剣に向き合って、悩んだり、会うことを慈しんだり、主従の関係を深くしながらお互い人として成長したり、仕事を頑張ったりするのがほんとで、いきなりいろんな相手を探したり、隠れてこそこそしたりは相手に失礼だし、男らしくないし、思いやりにかけるし、格好が悪い。
いろんな経験を超えて、それでも多頭飼いに自然になるのが多頭飼いだ。
昔、お妾さんという立場があった。
今なら愛人というのか。
今なら、お金の切れ目が縁の切れ目なのかもしれないけれど、昔は旦那はお妾さんを死ぬまで面倒みたという。
賛否はあるだろうけれど、人間は人間臭くていいし、人間臭くしか生きられなくてそうなった。
それでもそれは恋であって、男と女の物語だったのだろう。
私は相手がいないときは、奴隷を求める。
奴隷ができたら、基本そのこだけだ。
どうしようもなく、流されるように気づいたらそうなっちゃって、(つまり多頭飼い)というときはある。
だけど私は真剣に悩むし、自分に自分で傷つきながらそれでも離れられなくてそうなってしまうときもなくはない。
奴隷に恋をしていないなら、飼い主の資格はないと思う。
逆もしかりだ。
複数の飼い主に仕えることはありえない。
個人的に、そういう人は相手にしない。
両者の理解で成り立つ多頭飼い
M女は、あまえたい、そのために厳しくされたいのだ。
その後で、つまりお仕置きの後に、ご褒美をたくさんもらえる。
鞭の後の飴はあまい。
飼い主だけが自分をわかってみてくれて、愛してくれている。
だから、体も心も捧げるのであって、だからまっすぐに正直に真剣に向き合うのが飼い主としての礼儀だ。
そしてそういうM女の心理を理解しているのが飼い主だ。
多頭飼いは、それができるだけの器量がご主人様にある場合に限られる
他の女性を探している感じがする、自分以外に相手がいるようだ云々という相談くるけど、それは多頭飼いじゃないし、そう感じるならよしといた方がいい。
そう思うのは、大切にされていない、だからさみしいという直感があるからだろう。
本当にその人に男としてSとして魅力があって、大切に飼ってもらっていると思えれば、お互い認識の上で多頭飼いされても傷つかないものだ。
それでもいいと思えるものだ。
自分をもっと見てもらいたいから、かわいくなろうと思うものだ。
そしてそんなM女こそ、実は好もしいと思うのがSだ。
一部のM女は、多頭飼いされたいという人もいる。
そういう惨めな自分がいい。
それはその人の感性だから、それならそれでいい。
それについては別の機会に書く。
男としての器量、やさしさ、誠実さ、プレイの技術、そういうのちゃんと見た方がいい。
多頭飼いしているSは、中年以上の年齢でそれなりの人間性、経済性、プレイの経験、与えるものの大きさがあるから相手もついてくる。
奴隷になるというのは、委ねて、所有されて、飼われるということだ。
体を管理され、心も支配される。
そうされるだけの相手じゃないと、そんなことできるわけはない。
適当にSMしていると、あとで後悔する。
不器用でもかっこ悪くてもいいから、お互いまっすぐに向き合いご主人様として奴隷として深く温かい主従関係恋愛を少しずつ気づいていくべきだ。
そうして、だんだん調教もあまくなるし深くなる。
縛られた時、うっとりとなるか。安心して委ねきれるか。
首輪で繋がれた時、平安が訪れるか。この人になら繋がれていいと思えるか。
責められて昂ぶらされてそれを見られているとき、この人になら見ていてほしいと思えるか。
鞭で打たれながら、あまい感覚をその相手は与えてくれるか。
やさしいやつか。
頑張って生きているやつか。
まっすぐに自分をみつめてくれるか。
自分の良心に問いかけて、この人でいいと思えるか。
そして、大きな快感とこころの平安とかあまさとか、奴隷としてのせつなさとかを与えてくれるか。
さみしさを癒してくれるか、自分が相手のさみしさを癒せるか。。。
SMはロマンスだ。
性欲とか駆け引きとか、こころがぎすぎするような関係性じゃない。
自分だけこうしたいとかこうされたいとかでもない。
自分さえよければいいという人も確かに増えた。
相手を思いやり、相手の立場になって、相手の望むものを温かい気持ちで想像してそうしようとするものだ。
つまり、お互い、どこまでやさしくなれるかだ!
真剣な向き合い方で、主従の深さは変わる
逆に、多数の相手とそういうことをしているであろうとわかるM女からのメールもたまにくる。
Sとしてそういう人は相手にしない。
さみしさを、刺激の強い何かで埋めようとしているのだろうけど、辛いのだろうけど、それを癒すのは自分しかない。
ふつうに生きていて、がんばっていて、Mの部分を抱えて悶々としていて、だけど飛び込むのは不安だし怖い。
だけど勇気をだして、踏みだそうとする。
そんなところがM女のかわいさだ。
真面目なつきあいこそほんとのSMだと思う。
それは、M女の日記とか読むためだ。
私は受け身というか、もう無理にこちらから求めない。
真面目な人がいいし、未経験の人がいい。
あるいはまだ慣れてない人がいい。
違う色を染め変えるのは大変というか、昔の相手の色を感じたら傷つくからだ。
それは、心の奥に大切にしまっておくものだ。
一生懸命生きている人が勇気をだして志願してくる、そんな健気さがいい。
切実さはSMのスパイスだ。
躾けられること、所有されること、調教されることにあまずっぱさを感じて、悶々としている自分に嫌気がさして勇気をだして志願してくるみたいなのがかわいい。
自分は自分のやり方で飼い、愛しむ。
これは私の意見です。
違う考えもあっていいし、自分の意見がすべてではもちろんない。
そういう相談のメールがあったからです。
それから相談なら、最低限の礼儀あたりまえです。
勘違いされているけれど、調教日誌は時系列で過去のことを書いている。
45年の中で1対1だ。
Sとしてのプライドとして、これまで向き合ったステキな思いでを穢さないためにも真剣な向き合い方しかしないから、愛のないSMに関して私はわからないから、相談されてもわからない。
仕事どっさりで、仕事ばかりしている。
ひとりだ。
酒も飽いた。
海でも見てこよう。。。