神奈川の丹沢の近くに移転した。
山奥なら私でも買える安い土地がありそうで、そこで自分でこつこつ楽しみながら家を作り、老後はそこで暮らせばいいし、少し余裕ができたら限界集落やへき地に大工の仕事で廻りたい。
茅ヶ崎は第二の故郷で、語りつくせない思いがある。
ひとりで丹沢の山を歩く。
いろいろな思いが錯綜する
近くの飲み屋のおやじと仲良くなって夜中まで飲んだりした。
50に近くなったから、それなりに男としてのいろいろもある。
さみしさもあり、苦さもあり、暮らしの中に夢がつぶれそうになったりもする。
人として、人の温かさに触れ、今のままでいいのだと感じたり。
何が言いたいのかというと、私も、繋がることができたM女も、もがいて、悩んで、生きている人間だということだ。
人として、当たり前の優しさと温かさと、いろんな思いをちゃんと持っている。
そのうえで、性癖を乗り越え、共有し、共に生きようとした証が主従だ。
私たちは変態じゃないですよね、とかなみは言った。
どこまでも純粋で、健気で、気立てがよくて、そのうえでマゾだった。
それは女として、かわいくて、そういうことわからない人にはわからない。
その女のほんとうは私にしかわからない。
妖艶で、はかなく、もろい。
で、哀しい。
なにもわかならいくせに、ふざけたメールがたまにあるから、あえて書く。
真剣なメールは、勇気とか元気をもらえます。
志願のメールならもっといい(笑)。
もうないかな。。。
SMは単にプレイじゃない もっと深い主従関係だと思う
ここは出会いサイトじゃない。
それから私はホストじゃない。
調教師でもないし、SMカウンセラーでもない。
ふつうに生きているだけの50手前の当たり前の男だ。
多頭飼いはしていない。
私はSとして真剣なM女性を求めている。
なんだか出会いサイトで一回だけ適当に調教されてMだと気づいただとか、ネットや本での理屈だけでステキさがわからない屁理屈は、もう疲れる。
随分勘違いされているようだけど、私は数人とだけ、真剣に主従関係をもった。
随分遊んでいるように思われているようだけど、どう思われようか関係ないけれど、くるみ、さやか、かなみ、めぐ、ちえ
だけがほんとうのつながりだった。
(並列すること、失礼と思いますが、常に真剣でした)
いろいろな事情で調教したことはある。
自分が本当にMか確かめたいというH
ある事情でMなのだけれど、M男性の女王様にならなければならない、だから最後に調教してほしいという女性
虐められたことでMに目覚め、そのことで普通の恋愛ができないと大阪からなんどもきた女の子
障害があって、車いすできた人
人生、ほんとにいろいろで、私の方が素晴らしい出会いと経験、それは生涯忘れることのない思いでのシーンだった。
結婚するから、自分は本当はきっとマゾだから、最後に記念に調教してしてくださいとメールしてきたk
親子ほど年が違うのに、私についてきてくれようとした、その人。
SMは、プレイじゃなく主従関係、ご主人様と奴隷、ペットの関係性だと思う。
だから関係は深くなる。
深くなると、哀しくなる。
縛ると、そういうのが自然にでてきて、哀愁とかせつなさになる。
だから愛しい。
私にとっては奴隷との時間は物語であった。
ストーリーはいつも思わないほうに進んだ。
運命に翻弄されただけなのかもしれないけれど、出会ったとき、運命を覆そうと命を燃やした。
ハグして、泣いて、悩んで、思い、焦がれ、離れようとしてできなくて、それでも、を男と女として、主と奴隷として繰り返した。
だから、彼女たちは私の心に大きな跡をつけた。
それは色褪せたとしても、消えることはない。
疲れたとき、辛いとき、そしてさみしとき、いつも私の背中をそっと押してくれる。
相手の幸せを願ったからお別れしたのであって、けんか別れしたのではない。
大人のつながりだ。
SMとはそういうものだ。
ご主人様は感性が豊かだから、さみしさや思いを共有できることで、私は大人になれます、といってくれた奴隷がいた。
違う。
その人のエネルギーが伝わって、哀しかったり、愛しかったり、恋をしたりのすったもんだが相手に伝わったからだ。
お前こそ、純粋だったのだと伝えたい。
愛について話をして、自分が社会になにができるか、どう生きていけばいいのか、命とは、霊性とは、マゾヒズムについて、孤独とは、愛とは。。。
そういうことを話をした。
もちろんきっちり調教、管理、飼育した。
それが愛し方だったから。
いずれにしても、もしMならば経験としてSMの時間を持っていい。
一時的に堕落したり、堕ちていい。
だけど、主従関係は運命的なものであり、ならば、おたがいを最後は高め合うものだと私は思う。
相手の都合だけ、最下層奴隷とか、いいなりだけどか、そんなの私からいわせれば主従ではない。
自分とぎゅっと、どこまでも真剣に向き合えないから、相手のなすがままになる。
それが癒しになるならいいけれど、それはそうならない。
快感だけを繰り返し、もやもやのままで、ずっと依存したままで続く。
自分を愛することができないなら、これから学べばいい。
さみしい、誰かに見ていてほしい、認めてほしいという心の奥の願望、トラウマ、激しいマゾヒズム。。。
虐められたい、みじめな自分がいいのはマゾヒズムの悦びだ。
それはいい。
その中で、自分と向き合うべきだ。
とてもとてもつらいけれど。
マインドの奥のどこかが、なんとなく、いつのまにか癒されていく、そのときのうっとりとした表情はM性をもった女性のもので、かわいらしい。
普通の女性にはわからない、繊細さと、はかなさと、委ねることの安堵、縄の安らぎ、お仕置きの被虐。。。
そういうの、享受していい。
そういうのを、理解してそっと見ているのがほんとうのあなたの主だ。
小さな欲望や自分よがりな器の小さい男の調教をされても、みじめになるだけだ(最初はM性として悦びかもしれないけれど、 そんなものは表面の軽いものでしかない)
くだらない相手なら委ねないほうがいい。
それだけの価値がある相手かをちゃんと自分で考えなきゃならない。
レベルの低い男か、調教をちゃんとしてもらえるか、優しさ、技量、男としての大きさ、ひととしての当たり前の最低限の温かさがあるか。
大切に飼ってくれるか、愛してもらえるか。
そういうのを自分で判断しないといけない。
小説や動画のようなことは現実ではない。
人生がおかしくなる。
SMは人生の一部だけれど、すべてではない。
話しがそれてしまったけれど、私は真剣なすばらしいSMしかしたことがない。
ひやかしのようなメールがあるから、なんとなく思ったことを書いてみた。
そろそろ、真剣な出会いがあるといいな。。。